演劇評論家 中村 義裕
赤江作品の映像化や舞台化などはほとんど不可能に近いほど難しいと言われてきた。
それは、言うまでもなく赤江瀑の宇宙が、二次元の小説の中で完結しているからだ。
その文章から、読者がどれほどの想像力で頭の中にその世界を再現できるのか、そこは赤江作品を読む楽しみでもある。
とは言え、「映像で観てみたい」との欲求が湧き出るのも当然の話で、あの美しい世界を映像ではどのように見せるのだろうか、という期待があるのも頷ける話だ。
赤江さん自身が、作品の映像化をどう考えていたのか、つぶさに聞いたことはないが、多くは遺されていないことをみると、そう積極的ではなかったのではないだろうか。それでも、映画『オイディプスの刃』や、今回取り上げる『雪華葬刺し』をはじめとする何作かが映像化されている。
1975年に発表された『雪華葬刺し』は、1982年に若山富三郎(1929~1992)、宇都宮雅代(1948~)、京本政樹(1959~)の三人を中心に、高林陽一(1931~2012)監督の手で映画化されている。
京都の名人と謳われた、若山が演じる刺青師・大和経五郎のもとへ、あることから自分も刺青を入れる決心をした茜(宇都宮)が訪れる。当初は、もう刺青はしない、と渋る経五郎だったが、茜の美しい肌を見て彫ることを決意する。
しかし、経五郎の彫り方には特徴があり、彫る時には、必ず弟子の春経(京本)と全裸で交わりながら、というものだった…。
やがて、三人を巡る複雑な人間模様が明らかになってゆく。
「Tattoo」とも呼ばれ、世界各地で肌に墨や色を入れ、さまざまな模様や図柄を彫る習慣は紀元前3300年まで遡ることができるが、もっと古いものも存在するだろう。呪術的なものや、犯罪者を示す印、ある組織の一員としての証など、様々な用途で用いられ、ここ数十年はそれに「ファッション」の意味が加わりもした。
日本では、江戸時代に浮世絵の出現と共に、その図柄をアレンジし、背中全面、もしくは全身に彫ることが流行した。
現在も、「和彫り」と呼ばれる技術は評価が高い。こうした、趣味や心意気を示すものは同じ「いれずみ」の呼び名でも「刺青」と書き、犯罪者に彫られる「入れ墨」とは厳然と区別されているが、昨今の時代の流れは、こうした伝統的な流れを否定する傾向にあるのは周知の通りだ。
赤江瀑が惹かれたのは、言うまでもなく「刺青」で、この肉体芸術とも言うべきものを題材にした小説は、谷崎潤一郎(1886~1965)の処女作『刺青』(この場合は『しせい』)をはじめ、各種ある。
他の作家の作品との優劣を比較することに意味はなく、また私の力量ではできないことだが、赤江瀑の『雪華葬刺し』は、「刺青」という幻惑的な世界を、人間関係の妖美さが取り囲んでいるところに大きな特徴があると思う。
主な三人の人間関係がすでに妖かしの世界、とも言うべき設定で、そこに更に「刺青」が加わる。
小説と映像は、同じ作品でも似て非なるものだ。
読者が頭の中でイメージしている人物と、映像で迫る人物がぴたりと重なることは、ほとんどないだろう。しかし、若き日の宇都宮雅代も京本政樹も、見事に美しく、儚かった。
若山富三郎には、自分の人生に対する厚みと重みがあった。
特に、舞台である京都の自然な「京ことば」が耳に心地良く、作品世界に自然に導かれる。
これは、赤江さんもお気に召したのではなかろうか。特に、京本政樹はもう一本映画化された1986年の『オイディプスの刃』にも、重要な役で出演している。もちろん、名前が出て来ないキャストやスタッフの力の結集であり、若い時期に放送の仕事に携わり、現場を知っている赤江さんならではの感じ方もあっただろう。
舞台は幕が降りると同時にすべては消える。そこに「生」の面白みがある。一方、映像は生ではない代わりに、その時点で最高とされた瞬間の連続をいつでも同じ状態で再現することができる。演劇と映画の根本的な違いであり、魅力でもある。
赤江さんが歿して14年を経た今もなお、映像は新鮮に鮮烈な世界を持ったまま生きている。もちろん、作品とてその色は褪せずに、新しい世代の読者に違った感覚で訴えかけている。
このエッセイを書き始め、折に触れては赤江さんの作品群を眺めている。その度に感じることがある。赤江瀑は、短編の名手とよく言われたが、「タイトルの名手」でもあったのだ。