演劇評論家 中村 義裕
赤江さんは、戯曲はほとんど書いていない。昭和33年、NHKのラジオドラマに『雨の女』が入賞、また、「明治百年記念」で募集された脚本に応募した歌舞伎の台本『大内殿闇路』が高い評価を受け、放送作家への道を歩み始めた。
小説の中は歌舞伎を扱ったものも少なくはなく、赤江さん自身が歌舞伎に多いなる興味を持っていたのは事実で、歌舞伎という「鵺」のような芸能を小説の中で実感を持って読者に感じさせたのも、こうした歩みのゆえだろう。
河出書房新社から発行された『赤江瀑の世界』にも書いたので詳細は省くが、数少ない赤江さんの戯曲の上演の場に立ち会ったことは忘れ難い想い出だ。江戸期に上方で和事の名人と言われた初代坂田藤十郎(1647~1709)を巡るエピソードを描いたのが『夜の藤十郎』で、歌舞伎の初期の頃の京阪の姿が、闇の中に浮かび上がるような作品だ。
この芝居は、新派の女形だった二代目英(はなぶさ)太郎(1935~2018)が行っていた自主公演『英の会』での上演のために、英が赤江さんに依頼して実現したもので、現在は改築のため閉場中の半蔵門・国立劇場小劇場で上演された。平成7年の上演に際し、いくらかのお手伝いができたのは、仕事とは言え至福の時間だった。歌舞伎に関する豊富な知識が、赤江さんの筆で他の人には書けないような筆致で描かれた戯曲は、決して多くはない戯曲の中でも異彩を放つ作品だ。
その一方で、主人公が女形であるために、なかなか再演の機会がないのも残念な事実ではある。厳密に言えば、初演の英太郎は歌舞伎ではなく「新派」の女形だった。歌舞伎では現在、若手と呼ばれる20代から30代の俳優たちがいろいろな試みを行っている。そうした新しい感覚の俳優たちの手で、歌舞伎座の舞台で観たいと思っている。
これは、先に挙げた書籍にも書いていないことだが、赤江さんの歿後、生原稿を見せていただく機会があった。400字詰めの原稿用紙に綺麗に鉛筆で書かれた原稿には、ほぼすべてのページに赤が入っていたのを見て、驚いた。
私のような怠け者は、自分の原稿が活字になってしまえば、間違いや誤解がないかをざっとは点検する程度で、発表した原稿に再度向かい合うことはない。それは決して満足しているわけではなく、活字になった時点で「終了」との感覚を持ってしまうからだ。
しかし、赤江さんの原稿には真っ赤と言ってよいほどに直しが入っていた。この作業が上演後、どのようなタイミングで行われたのか、私にはわからない。また、その時点で再演の話があったのかどうかも不明だ。しかし、再演の話があろうとなかろうと、自分が更に満足のゆく原稿にするために丁寧に直した跡を見て、私は赤江さんの自身に対する厳しさと、物を書くことの覚悟を知った。同時に、自分の怠惰な日常に恥じ入った。
物を書く仕事をしていれば、発表した後に必ずしも満足しない、というものはいくつもあるだろう。これは、赤江さんの『夜の藤十郎』のことを差しているのではない。舞台の感想を赤江さんに直接聞いたわけではないからだ。しかし、自分の中で合格点を出せなかった作品に対し、終わった後で再び向き合い、それに手を入れる作業がどれほどにエネルギーを必要とするものか。これは、なかなかに大変なものだ。
下世話な話になるが、直した原稿に対して新たに原稿料が貰えるわけではない。あくまでも、「己との闘い」である。自己満足と言ってしまえばそれまでだが、赤江さんはそうではなく、自分を許すことができず、新たな修正を厭わなかった。そに、赤江さんの凄みとも言える部分がある。
このホームページの第二幕の冒頭に、泉鏡花賞を受賞した際のインタビューが抜粋されている。その中に「どれほどに作者が心を砕いて練りあげた自信作であろうと、読者がそれを読みとらなければ、作品は存在しないも同然でしょう。一つの作は、作者が創り出した宇宙と、読者が読みとる宇宙とを、たえず同時に合わせ持っていると、私は思います。作者の宇宙と、読者の宇宙が、火花を散らす。鎬をけずる。闘い合う。そういう関係にあるものだと思うのです。」との言葉がある。
その実践を、『夜の藤十郎』の原稿を見て、深く実感した。引用した赤江さんの言葉は、「舞台」にもそのまま通底するもので、演者と観客が持つ宇宙が火花を散らし、闘って一つにならなければ完成度は低い。赤江さんの言葉や行動を、まずは自分のものとすると同時に、こうした厳しさとは無縁のように量産されているお手軽な舞台に、戦慄を覚えもする。
時代が移ろい、受け手の感覚がどのように変わろうとも、創る側の姿勢は安易に変えてはいけないのだ、という赤江さんの教訓である。
もっとも、赤江さんは「教訓」などという言葉は好まないだろうが。